長谷川恭久さんの履歴書とWebのオープン性、コミュニケーション(前編)
和田です。こんにちは。
WebSig1日学校で、「未来へ繋ぐWeb系デザイン思考」(当日の資料はこちら)という興味深いテーマで登壇いただいた、長谷川恭久さんにモデレーターMTGに遊びに来てもらいました。
当日はあれこれお話もしたのですが、「WebSig行ってきた」シリーズでここ最近つかっている、履歴書ベースで話を聞くという手法でもお話をうかがいました。
ヤスヒサさんといえば、couldで興味深い記事をあげられていたり、各所セミナーでもおなじみです。
特徴のあるスライドやアメリカ的発想とも日本的発想とも少し違う考察にはどのようなバックグラウンドがあったのでしょう。
個人のキャリアやアメリカ時代のこと、仕事についてあまり伺ったことがなかったのでたのしみです。
■世界貢献したい。高校時代にアメリカへ
中学時代からなんとなく日本はつまらないなと思っていて、94年に高校を休学してアメリカへ留学。日本人がぜんぜんいない普通の高校に留学したので1年位は孤独で、泣きながら教科書を読んでいたそうです。
「1年で失敗したら戻ろうと思っていた」その、オプションは杞憂におわって大学へ進学し、国際関連学、国際政治、経済などを勉強。クレバーな印象があるヤスヒサさんですが、意外にもこの選択は「パンフレットを並べて行けそうなところをえらんだ」とのことです。
アメリカをえらんだ理由の1つに「世界貢献をしたいという」という思いがあったとのことです。この感覚はわたしにもあって、うんうん、と聞きながら話していたんですが、モデレーター内ではあまり同意がえられませんでした(笑)。
わたしとヤスヒサさんはちょっと中2病(ヤスヒサさんには失礼)的な要素が強かったのかもしれません(笑)。
10代なかばの男子にあるあるだと思っていたんですが(笑)。
アメリカの大学はよく、入るのは簡単だけれども出るのは難しいと聞くので、聞いてみたところ、「学者の書籍を次の授業まで読んでディベートということも頻繁にあって大変だった」とのこと。やはりそうなんですね。
このころに感じた、日本とアメリカの民主国家の違いについての感覚はいまでも強く残っているそうです。
■Webにハマり仕事に。9.11をきっかけに帰国、フリーランスへ
大学時代にWebにどっぷりはまっていき、大学の専攻もデザイン系、ビジュアルコミュニケーションに学科も変更し、2001年頃にはWeblogブームで自分でもやり始め、卒業制作ではFlashでつくったインスタレーションやHTML,JS,PHPなどこの頃なんでも手を付けていたといいます。
授業でWebデザインの話になると、先生からお前が教えろといわれたそうです(笑)
就職は友達がいたデザイン会社から誘われてそのまま働くことに。いわゆるマルチメディア系の会社で、Webもぼちぼちやりはじめたという会社だったそうです。当時、日本でもよく見かけたWebをやり始める会社っぽい形ですね。
2年ほど働いて帰国することになったヤスヒサさん。おおきなきっかけになったのは9.11があったそうです。
「保守系なひとたちがどんどん宗教色が強くなっていく姿やビザがきびしくなったのもあり、住んでいた比較的都会じゃないエリアやリベラルな学生でもこうならもうだめなのじゃないか...、そして、アメリカが嫌になってしまった」とヤスヒサさん。
日本でもマスを含めていろいろ報道され、ネットでも情報が拾えてきていた頃なので、もちろん感覚的に理解はしてましたが、どこか偏って伝わってきているのではないかと少しうがった目で見ていたんですが、現地かつ日本人という生で感じられることはわたしが思う以上のようでした。
帰国後は実家の三重から近いということもあり、名古屋でしばらくフリーランスでWebの仕事や書籍出版に携わった後に上京します。
2006年頃には、1年ほど女性系の雑誌を出版している出版社に1年ほどいたそうで、これはちょっと意外でした。
「ネット業界では同年代で動くことが多かった当時、年上の編集長が尊敬できる人だったから」ということです。その時に、日本文化を学べたのはいまも大きな出来事だったようです。
後編へつづきます。