使いやすいUIを追い続けてしまうと自己中になりやすい

「使いやすくて目新しいUIにしてほしい」とWebやアプリのデザイン依頼で言われることがある。

よーしがんばるぞーと思って、デザインにとりかかる。

そしてデザインの第一案をだすと、もうちょっと目新しさがほしいよねーといわれ、第二案で新しい取り組みをいれると、もっと使いやすくならないかなとなり、次か次かそのまた次くらいでやっと「目新しいしく使いやすいUI」と呼ばれる何かができあがる。

順番はこの毎回この通りなわけではないし、もっと短く終わる場合もあったりするけれど、こうして「使いやすさ」を求めてデザインをリテイクしていくと、それは気づくととても自己中なデザインになっていたりする。

「〜しやすい」という言葉は、前提として比較する対象があるはずだ。

「使いやすい」というからには、使いづらい何か、もしくは普段使っているWebページやアプリのどれかが考えのベースになっていて、それよりもっと「使いやすい」状態を求めているということになる。
とすると、そもそもデザインを依頼する側と作る側それぞれの「使いやすい」がもうとてもとても個人的なもので、別物である。「使いやすい」という言葉そのものが自己中なものなのだといえるかもしれない。

「使いやすい」なんて状態は、1人暮らしを始める部屋に自分で選んだ家具を並べてモノがある程度増えて何がどこにあるかわかったりわかんなくなったりするような状態であると考えると、1番しっくりくる。
それは他人からしたら使いづらい無駄の多いものかもしれないけれど、「使いやすい」という状態は慣れと修練でしかないので、他人がどーのこーの言ってもピンとこないものなのだろう。


デザインで追い求めるものはなんなのか

そこで振り返って考えてみれば、新規のデザインを考えるうえで「使いやすさ」というものを意識してしまうと、デザインはこんな風な進化をしてしまいがちだ。

  1. 1.初期段階:デザインを作った人にとっての使いやすさ
  2. 2.中間段階:そのデザインを確認した人たちにとっての使いやすさ
  3. 3.最終段階:"作ろうとするもの"をよく知っている人にとっての使いやすさ

使うものをよく知らないと実は使いにくいデザインなのに、本人たちはよく知ってしまっているし、何度もリテイクしたものからできたものだったりするので、それがまさか自己中なものになってるなんて気づかないのだ。

新規で作ったもののユーザーテストを実施してみたり、もともとあったものの改修であったりした場合。「今よりもっと使いやすく」と考えるスタートラインがほとんど同じではあるが、例えば「ここが使いにくいから、もっと使いやすくして」とあがってきた意見に対して、そのまま鵜呑みにしてしまって「何が、どういう状況で、使いにくいと感じる要因なのか」を分解しないと、結局「使いにくい」ままになってしまうこともある。


だったらデザインするうえで追い求めるのはなんなのかといえば「使ってみたい」という喚起であったり、「使わないと」と思わせる導線だったり、「使ったことがある」安心感の提示だったりする。
それらが1つのUIとなって、それを使用した個人レベルの感想に落とすと「使いやすい」ものになるのが最適の形ではないだろうか。

要するに「使いやすい」というのはなんら具体的な指示ではなく「かっこよくして!」「女の子ウケよくして!」といってるのと変わらないということだというのを、それを受けるデザイナー側としても、それを出すディレクター側としてもきざんでおきたい。


あとがき

なんて話で申し遅れましたがモデレーターのあくやん(@akuyan)です。
このネタは「使いやすいUIなんて幻想だよねーって話」というタイトルで個人のブログに書きはじめ、そっちはもっと偏った表現をバリバリ駆使して進めてたんですが、ちょうどモデレーターリレーブログがまわってきたので、気分をとりなおして清書してこっちに載せてみました。

「使いやすいUI」という表現になんだかずっともやもやしていたので、自分の中でオチつけたのがこの形でした、ということです。
直近のもやもやトピックスは、なんで男の人はあんなにも下ネタが好きな人が多いのかということです。しばらく考えたいと思います。


というわけでお次にバトンまわします。

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